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ここでいうハナタラシは80年代中期の山塚アイの初期活動母体としてのハナタラシを指す。山塚アイが大阪でホストなどのバイトをしながら、それでも音楽活動への情熱を息途切れさせなかった、荒くも生々しい山塚アイそのものの歴史の始まりである。
当時のハナタラシは音楽ユニットとしてよりもその活動の派手さに 話題が集中していた。「客に瓶やドラム缶を投げつける」、「客席に灯油をまいて火をつける」、「チェーンソーで動物を殺す」などと、話はエスカレートして いき、インディーズ版の都市伝説のようにもなっていった。実際、どこまで行われていたのかは今となってはよくわからないが、その話題に惹かれる人も多かっ たと思う。
幸い、最近になって、かつてのハナタラシの映像がYouTubeなどにも公開されるようになり、その実態が明らかになりつつある。
ハナタラシ、あるいは山塚アイという人物は、「音楽の世界」というカテゴリーそのものに変革を加えた、世界的に見ても極めて大きな功績を残した人物ということは確かである。
▼ハナタラシの80年代のライブ映像。上が新宿アンティノック。下が渋谷LA MAMA
[個人的思い出]
85年くらいだったか、ジェネシス・P・オリッジが主宰するサイキックTVが来日したことがあった。東京・中野での2日間にわたるライブで日本側の前座を 務めたのが、非常階段、YBO2、あぶらだこ等であった。
その際、チラシにはハナタラシのクレジットもあったのだが、その時に彼らは出場しなかった。噂レ ベルでは「山塚アイが会場にダイナマイトを持ち込んだため主宰者判断で中止となった」とのことだったが、これも真偽はわからない。第一、ダイナマイトを 持っていては主宰者判断以前に警察沙汰だとも思うのだが。
ちなみに、この日、会場外でチケット(自分が出るはずのイベントのチケット)を売っていると思しき山塚アイを目撃した記憶があるのだが、これも今となっては何だか都市伝説のようだ。
他にも山塚アイにはいろいろな伝説があるが、その後のBOREDOMSの商業的成功を見るにつけても、何もかもギミックだったのかもしれない。
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▲これはデビューシングルの表ジャケット。(ホワイトマン/変なパーマネント)
当時のニューウェイブ、パンクユニットの中で、ルックス的にここまで強烈に格好良くなかったバンドは多分なかっただろう。
しかし、音楽的にはすでに独自のロック概念を持っており、その音楽性によって、根強いファンを持ち、その音楽性を次々と変えながら、非常に長い音楽活動を 続けることになる。このデビューシングルのB面の「変なパーマネント」は、私の高校時代の日本ロックのベスト10に入る個人的名曲。
蔦木栄一(兄)蔦木俊二(弟)の蔦木兄弟により結成され、1980年にPASSレコードよりデビューシングル「ホワイトマン/変なパーマネント」をリリース。ニューウェイブが言葉としてのブームとなっていたこともあって、一躍、人気バンドに。81年には初のアルバム「成り立つかな」を出す。
その後は蔦木兄弟以外のメンバーは変動しつつもコンスタントに音楽活動を続け、フレッド・フリス、ロル・コックスヒルといった前衛畑の外国人ミュージシャンたちと競演したり、レコードを出したりしている。
2003年に蔦木栄一が肝不全で亡くなったが、現在でも活動は継続している。
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▲1998 年にアメリカの「 Viva Variety」(ビバ・バラエティ)に出演した際の少年ナイフ(この番組にはCibo Mattoなども出ていたはずだ)。
もともとは1981年に学生時代の同級生のOL3人により結成された「女の子バンド」であった。活動拠点は大阪で、かげろうレコードなどの自主制作オムニバスによく参加していた。
彼女たちが突如、日本のロックシーンの中で注目を浴びるのは、彼女たちがアメリカで人気が出始めた頃である。1986年にアメリカで「CAPRETTY LITTLE BAKA GUY」をリリースした後に、彼女たちのアメリカでの人気は次第に高まっていく。とどめを刺したのは、NIRVANAの故カート・コバーンが彼女たちの大ファンで、少年ナイフはNIRVANAと全米ツアーを慣行したという事実である。
アメリカのバンドでさえ難しいNIRVANAのサポートとして彼女たちの存在はアメリカに置いて急速に拡大していった。日本ツアーというならともかく、全米ツアーでNIRVANAに同行する日本人のバンドが現れるなどということはまさに「仰天」する事件だった。しかも、それは「同級生同士で作ったOLバンド」だったのである。それに加えて、SONIC YOUTHなどの大御所バンドまでもが彼女たちのトリビュート・アルバムを制作するなど、何だかもう大変なことになっていったのである。
もしかしたら、その変化に一番驚いたのは彼女たち本人ではなかっただろうか。少年ナイフは日本においては、インディーズシーンの中でさえも、ダントツ人気とは言い難かった部分はあるからである。
日本での知名度は、そのアメリカ人気からの逆輸入という形だったと思える。
私自身はまだアメリカに行く前の彼女たちの曲が大好きだった。
少年ナイフのひねりのない単純なロックンロールは、日常聴く音楽として比類のない心地よさだ。要するに、そのストレートさと心地よさがアメリカ人には新鮮 な驚きとなって映ったのだろう。アメリカ人も、そして世界の誰もが忘れてしまっていた「ロックンロール」という楽しい音楽を少年ナイフはのしをつけてアメリカに返したのである。カート・コバーンに、そして、ソニック・ユースにさえも、彼女たちはロックンロールの楽しさを再認識させてしまったのである。
それが彼女たちに意図されたものではなかったにせよ。
今のところは、少年ナイフほど海外で興行的に成功した日本のロックバンドは見当たらない。
▼「RIDING ON THE ROCKET」のプロモーションビデオ
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ゼルダ
インディーズバンドというのには語弊があるが、ファーストアルバムのプロデューサーがリザードのモモヨだったというあたりに、その所以がある。モモヨのバックアップで東京ロッカーズのアイドル的な存在となり、また、インディーズ界の寵児ともなった後は、音楽性を次々と変貌させて、ポップからファンク、ブラックミュージックまで多彩にこなしていた。
現在、Voのサヨコは、元じゃがたらのOTTOら3人でバンドを結成しているようだ。音の内容はわからないが、子供たちの自然育児などをテーマとしたような活動を行っている模様。チホは伝え聞くところでは、沖縄に根ざした感じの音楽での活動を続けているようだ。
関係ないが、チホはゼルダが北海道に来た時、すなわち23年前にすでにお子さんがいたはずなので、かなり大きな子供がいるということになりそうだ。
[個人的思い出]
デビューアルバムを出した時に、ゼルダはモモヨを同伴しての全国ツアーをしていたのだが、私はまだ東京に出ておらず、北海道の高校生だった。その時に比較 的近くの美唄という町にモモヨが来るというので(当時はゼルダは無名だった)、見に行ったが、そこはライブハウスでさえない喫茶店だった。そんなところで ライブをやっていたのだ。
あの時の喫茶店での客の乱痴気騒ぎ(客は若い男の高校生で、無名のバンドが若い女性ばかりというあたりで推察していただきたい)を思い出すと、人生いろいろだと思う。ゼルダはその後、メジャー街道を突き進んだ。
▼1983年にテレビ出演した際のZELDA
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▲徳間からのアルバム「STOP JAP!」のアレルギーのビデオクリップより。このアルバムの一連のPVの監督は石井聰亙。
日本のパンクロック史上、もっともギミック的な商業手法が成功したユニットだったかもしれない。リーダーはボーカルの遠藤ミチロウで、秋田大学在学中に始め たフォークユニットからバンド「自閉体」を経て、1979年、バンクバンドに変貌。当時、すでに遠藤ミチロウは30歳に近かった。
そのバンド名を「スターリン」としてロック界に殴り込みをかけることになる。
初代メンバーは、杉山晋太郎(Bass)、乾純(Drum)、金子あつし(Guitar)、遠藤ミチロウ(Vocal)。
ライブでは全裸、自慰行為、暴力等を繰り返し、数々の「伝説」を作り続ける。
それは根底がギミックではあったにせよ、当時のロックファンに「音楽表現に対して真剣であることは何か」ということを改めて問うことにもなり、後に続く多 くのパンクバンドに指標を与えたといっても過言ではない(今ではそれを否定する人々がいるにせよ、当時はみんなそんな感じだった)。
デビューレコードは80年のソノシート「電動コケシ/肉」だが、これは正式に販売されていたという記憶がないので、無料配布等だった可能性がある。「電動コケシ/肉」は、2005年にソノシートで再販されたそうだが、事情は知らない。その「肉」は初期スターリンのテーマ曲的な存在だった。
その後、自主レーベル「ポリティカルレコード」よりフルアルバム「TRASH」を出した後に、徳間ジャパンから「STOP JAP」をリリース。
その後もコンスタントにアルバムを出し続けるが、幾度となくメンバーが入れ替わり、「スターリンは遠藤ミチロウそのもの」と化していく。1993年にスターリンとしての活動を停止。
遠藤ミチロウは現在でも、アンプラグド=アコースティック・パンクの旗手として精力的に音楽活動を続けている。
▼杉山晋太郎(Bass)、乾純(Drum)、金子あつし(Guitar)、遠藤ミチロウ(Vocal)の初代メンバーによる「肉」のプロモ。
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▲GISMの横山SAKEVIとじゃがたらのアケミが共演した1982年のライブより
デビューしたのは70年代の終わりだろうか。東京を中心に活動していたが、初期の頃は音楽を中心にしたバンドではなく、リーダーのアケミのパフォーマンスが売りだった。それこそ、後のハナタラシの如く、流血し、生きたニワトリなどを食べたりしていたという。
デビュー時は相当の問題児だったようである。テレビの生収録中に襲撃してきたギズムの横山サケビとテレビカメラの前で乱闘になったこともあるらしい。
その後、音楽を中心とした活動に転換し、アンダーグラウンドフィールドを中心に大いなる人気と知名度を誇るようになる。テレビや雑誌などでも取り上げられるようになり、あとはメジャーデビューを待つだけという状況になっていたが、しかし、アケミは80年代半ばに精神的に衰弱し、音楽活動を停止していた時期もある。その間もメンバーたちがバンドとして残り続け、じゃがたらを維持させていた。
1989年についにメジャーデビュー。しかし、これからという矢先、1990年に事実上のじゃがたらの化身でもある江戸アケミが浴槽で事故死。溺死であった。享年37歳。アケミの死で、じゃがたらの前進は止まったが、多くのファンの存在により、幻影は消えてはいない。
▼結成間もない1980年頃、吉祥寺のライブハウス「マイナー」で流血するアケミ。
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作レーベル、フロアレコードからアルバムデビューした女性4人(当時)によるユニット。何とも不思議なアバンギャルドポップの魅力は、さすが突然段ボールファミリー、と感心したものだった。
ファーストアルバムは1982年の「サボテン」だが、一般ロックファンがサボテンのことを認知するに至ったのは、1984年にバルコニーレコードから発売されたオムニバス「くっついて安心」ではなかっただろうか。これは当時の自主制作シーンの女性を中心としたバンド(少年ナイフ、サボテン、D-Day、コクシネル)の曲が収められており、きわめて良質なロック、ポップの集合体のアルバムで、インディーズシーンにおいての女性が生み出す価値観の重大性に気づかされたものだった。
少年ナイフやサボテンの曲を聴いていると、「音楽は楽しくて気持ちよくなくっちゃ」というような、ポジティブな音楽への姿勢がヒシヒシと伝わってきたものである。私の当時の一番登場頻度の高いBGMが「くっついて安心」であり、サボテンの「箱庭」だった。押しつけがましくはない、良い意味でスポンジのようなロックだった。
サボテンのアルバムのリリースはきわめてマイペースだったようで、ほぼ10年に一枚というペースで出し続けていたようだ。現在、3枚目のアルバムが出ていて、活動20年を越えようとしている。音楽でも何でもデビューすることはさほど難しくはなくとも、続けることは意外と大変なのだ。
2006年、メンバーも、サボテンという名前はともかくとしても、メンバーは現役で活躍しているようだ。
2002年には10年ぶりとなる3rdアルバム「つづく夢」を発表していている。
ライブもぼちぼちとやっているようなので、20年ほど時間は経ってしまったが、改めて良い感じで年齢を重ねている(ようにお見受けする)サボテンの淑女たちのライブを堪能したいなと思ったりするのである。